アリクイを食べるバイタンゴの木の話

 昨日、ママンの誕生日だった。
 ママンに長々としたメールを出し、折り返し電話をもらった。ママンの声は弾んでいて、僕はとても照れくさく、同時に胸が苦しくなった。ママンは僕が大好きで、僕はママンが大好きで、でも僕は日常にかまけてあまりママンに連絡をとらないから、ママンは僕から連絡が来るとその内容が少しくらい妙ちきりん*1であっても嬉しくなって舞い上がってしまうらしい。そのようなママンの声を聞くたび、僕は恋人をほったらかしておいたような後味の悪い思いをして、金に頼ってプレゼントを贈ってしまいたくなったり、近いうちに一度帰るよとうっかり言ってしまいそうになったりするのだ。今月は給料がよかったんだよと言い張って。


 ママンはインターネットをしない。パソコンがうまく使えないみたいだ。電源を入れて、切るくらいはできる。でもそれもおっかなびっくりだ。なんだかいろいろやれて、病気にもなる(ウイルスという単語だけは知っている)得体の知れない箱だと思っているのだろう。事態は深刻だ。近いうちに、本当に近いうちにインターネットぐらいには自然に触れられる環境にしなくてはと僕は気ばかり急いている。四月に一度帰って、何もかも整えるつもりだ。過去に二回くらいこの台詞を言った。二度あることは、ではなく、三度目の正直にしなくてはならない。


 ママンがインターネットをしないことの不利益は明確だ。ネット環境の不在はママンの才能を眠らせてしまう。解き放たれるチャンスを封じてしまう。ママンは明らかに僕よりも「創作者」「創造者」「発信者」として才能があるのだ。僕のパパンもそう言っている。今、ママンはインターネットを使えない。ウェブに自分だけの絵や文章を掲載することができない。だけど僕は、ママンの書いた話をウェブに残したい。



 だから、今日はその話を書く。
 近いうちに僕は必ずママンにインターネット環境を用意して、ママンが描いた話をあまさずアップロードさせるつもりだ。このエントリはその約束になる。しかし、僕がママンが描いた話を少しでもここに載せたとしたら、それはそれでルール違反だと思う。あの話は、あくまでママンの名前で発表されなくてはならないからだ。僕は「作品を発表する」という素敵でありながらも虚しい、誠実さの発露たる行為をママンから取り上げたくない。絶対に。だから、僕は、いささかのアレンジを加え、メモするようにここに書いておく。


 タイトルは「アリクイを食べるバイタンゴの木の話」。
 ママンはていねいで穏やかなですます調でこの話を書いていて、その語調は適度なオノマトペに彩られて柔らかかったのだが、僕はそれを再現しない。と、いうか、そもそもこのタイトル自体、ママンのものと比べるとおよそ2文字くらいしか合ってない。
 なるべく短く、ママンの話の魅力が【損なわれる】ように書くつもりだ。



      アリクイを食べるバイタンゴの木の話


 バイタンゴの木は、とてもとても大きい。南の南のそのまた南にどこまでも行ったところに、一本だけ立っている。誰が呼んだか、バイタンゴの木という名前だけは知られていた。
 バイタンゴの木は、いっぱいの葉に覆われている。葉は一枚一枚色がまるで違って、遠くから見るとまるでモザイクのようだった。バイタンゴの木には誰も近寄らなかったから、バイタンゴの木はただモザイクと言ってもいいくらいだった。誰も近寄らなかったのは、バイタンゴの木からはひどい異臭がしたからだ。腐ったような、濁ったような、それはひどい臭いだった。しかし、アリクイにとってだけは違った。アリクイにとっては、バイタンゴの香りはとてもとてもあまやかで、気持ちのよいものに思えるのだった。
 …………

 というような話。実際はもちろん最後までストーリーがある。このあとストーリーは、バイタンゴがどのようにアリクイを食べるのか、という描写が続き、そして……となる。本当はもっと書きたいのだけど、その権利はもちろんママンのものだ。
 ところで、ママンが書いたのは当然ながらバイタンゴという言葉ではないし、アリクイでもない。このあたりは似た語感のものをいろいろ探して僕が創り、あてはめた。タイトルも、ママンではなくレオポルド・ショヴォー氏の「子どもを食べる大きな木の話」からいただいた。


 繰り返すが、僕は絶対にママンが書いたこの話をウェブに出したい。だからママン、頼むからあの話を書いたノートを捨ててしまっていないでほしい。もしも見つからなかったら、もう一度書かせたいぐらいなのだから。

*1:泡坂妻夫の訃報や、講談社写真部による写真の話だった。