「間違いは発覚すると正解になる」か?

間違いは発覚した時点で正解になるんですね  By風浦可符香


 校正をやっていると、常に「間違い」というものに出くわす。誤変換をしていたり、文字がダブっていたり、あるいは足りなかったりする。しかし、それが「間違い」であると分かるのはなぜか、というところに意識を向けると、ひとつの逆説が生まれることになる。


 仮に、「1+1=3であるとは限らない」というセンテンスがあったとする。
 「〜とは限らない」が修飾する内容は常識的内容であることが多いことを、読み手である僕たちは「経験則」で知っている。だから、ここでいう「3」は「2」のほうが『文脈に沿っている』んじゃないだろうかと想像する。


 さらに、「1+1=□であるとは限らない」というセンテンスを考える。
 僕たちはおそらく四角の中に何か入れろといわれたら、天邪鬼でもない限り「2」を入れたくなるはず。

 ここまでくれば、「1+1=   であるとは限らない」というセンテンスがあったとき、その空白に「2」を入れるのはもはや自然の流れだと言っていい。

 ざっくり言って、「1+1=」の次に何が来ていても、末尾が「〜とは限らない」であるなら、イコールの次に「2」が来てもいいはずだ、来るのが自然だと判断すると思う。

 もし「2」が著者の意図した正解であるなら、何が来ていても「2」を喚起できるのであれば、それは厳密な意味では「間違い」とは言えないんじゃないだろうか。だって正しい意図は伝わっているんだから。


 と、これはもちろん暴論というヤツだ。実際に作者は「1+1=3であるとは限らない」ということそれ自体を伝えたいのかもしれないのだし。ただ、これを単純誤字に置き換えると、また話は変わってくる。

「完璧」を「完壁」と間違えて、それで何か困るのか

 校正者としてではなく、ごく一般市民的、普通の読書人としての視点だけど*1、「完璧」が「完壁」と書かれていても困らない。さらっと読む限り、九分九厘「かんぺき」と読むし(これは正確には誤読だけれど)、振り返って確かめたりすることがあるとは思えない。気付きもしないし、気付いても「あーあ」で済む。解釈には悩まない。
 「完璧」と書きたかったのだろうということが明確だからだ。


 誰でも分かる、誰でも正解を類推できる「間違い」は、正解が類推できるのだから、伝達の点ではまったく支障がない。
 間違いは、発覚するなら「正解」も同然じゃないだろうか。ただし、伝達の点でだけ、だけど。


 だったら、なぜ誤植を防がなきゃならないのか? ということは、また次回まとめる。

*1:校正者が校正者の立場としてこれを言っていたら噴飯ものです、念のため